アメリカでは対戦車ライフルの開発が盛んではなかったって言説がまかり通っているので、再びアメリカの対戦車ライフルを紹介する記事を作ってみるなどした。

この計画は1937年ごろに開始された.90口径(=22.86mmだが、実際は23mm)の航空機関砲を開発する計画から派生したもので、T1、T2、T3、T4の4モデルが試作された。
最後に開発されたT4の製造はコルト社が担当しており、これが対戦車ライフルへ仕様変更されることとなった。

大口径の航空機関砲を開発しようとする流れは1930年代後半には珍しくないものだったが、アメリカが敢えて20mmではなく23mm口径を選んだ理由はわかっていない。
当時試験されていたデンマーク製のマドセン機関砲の影響を受けた説が有力だが、単に他国より口径を大きくして威力を高めたかった説も否定できない。

この機関砲の仕様は初速が869m/s、発射速度が130発/分とされ、重量は57kg(125ポンド)を超えてはならないとされた。
この発射速度はイスパノ・スイザ HS.404の700-750発/分の6分の1程度と航空機関砲としてはかなり低い数値で、なぜこれで良しとされたのかも定かではない。
また装弾数は最低50発で、弾倉ないしクリップは装填時の重量が15.5kgを超えないことも要求された。

この仕様に基づき作られた最初のモデルがT1機関砲であり、製造はロックアイランド兵器廠が担当した。
この機関砲が使用する23mm弾は、1.1インチ「シカゴ・ピアノ」対空機関砲の28x199mmSR弾をネックダウンし、スリーブを短縮したもので、23x146SR弾と命名された。

弾薬は50発入りのドラムマガジンから油圧で装填されたが、これだけで重量が37kgもあり、戦闘重量は93kgを超えてしまった。
作動方式はロングリコイル式で、余剰な反動は油圧機構によって吸収された。
発射速度は150発/分だったが、油圧機構のオイル流量を変えることで調節できた。

結局のところ、これは小型軽量化されて空冷式になったシカゴ・ピアノに過ぎず、航空機関砲としては不満足なものであった。
唯一褒める点があるとすれば1938年1月に行われたテストで890m/sもの初速を記録したことだが、同時に航空機関砲にこれほどの威力は不要かつ、発射速度の方が重要であるとの結論が得られた。
そこで仕様が初速823m/s、発射速度500発/分に変更され、開発が継続された。
その後ウォーターヴリート工廠によって後続のT2,T3が開発されたものの、こちらの詳細はよくわからない。しかし次のT4でコルト社が開発に参加することから察するに、あまり成功したものではなかったと思われる。

そんなコルト社の参入は既にヨーロッパでは大戦が本格化していた1940年ごろであった。この機関砲はこれまでと異なり37mmブローニングM1A1高射砲をベースとし、弾薬はT3用に開発された23x139SR弾が選択された。

試作品の給弾方式は10発装填のクリップ式だったが、量産時にはマガジン式に変更される予定だった。
このクリップは砲の左右どちらからでも装填可能であったことから、この機関砲はP-39などに搭載された37mm M4機関砲に近い構造だった可能性がある。
発射速度は800発/分に達し、信頼性も高かったものの、重量が本体のみで92kgもあったこと、そして既にイスパノ・スイザ HS.404をベースとした20mm機関砲の導入が進んでいたことから計画は断念された。

しかし信頼性の高さと23mm弾の威力が注目され、.50口径機銃と37mm砲との間のニッチを埋める装甲車向け対戦車火器として開発が再開された。
同時に三脚を付けて歩兵用の対戦車ライフルとすることも想定され、2人の兵士か1頭の馬で運べることが求められた。
既に37mm砲でも火力不足と見做された時期ではあったが、連続射撃による集弾効果で軽装甲の車両は十分撃破できると判断された。

試験ではスイスのゾロターンS-18/1000 20mm対戦車ライフルと性能が比較され、装甲貫徹能力では上回ったとされている。
しかし向こうの重量は45kgと、こちらの半分弱ほどであり、それ以外の点で勝る所があったとの記録もない。

しかし重量を要件を満たせるほど軽減できなかったため、陸軍司令部が興味を示さず、計画は中止された。
・参考


および画像キャプション内URL
コメント